ユダヤ人にとっての聖地ー世界遺産マサダ (イスラエル)

イスラエルには見所がたくさんあります。あり過ぎて、何を見たらいいのかさえ分からなくなります。大抵の方はエルサレムに1、2泊されてエルサレムを中心に観光されるかと思います。エルサレムの見所は数限りなくありますので、4泊しても見切れないとさえ言われています。今回はエルサレムではなく、あえて別の観光地をフィーチャーしてみます。それはユダヤ人にとっての聖地マサダ。  

↑こちらがマサダ要塞の全貌となります。私のほうでは全貌を撮った写真がありませんでしたので、ウキペディアからダウンロードさせていただきました。

このマサダはイスラエル側の死海の南端に近い場所に位置しています。死海を見渡せる高台にあるこのマサダは、現在では Masada National Park として知られています。400㍍以上高くそびえ立つ岩の台地です。

何故ユダヤ人にとっての聖地かというと、エルサレムを滅ぼすためにやってきたローマ軍に最後まで抵抗したユダヤ人が最終的に集団自決した場所だからです。

このマサダはかなり小高い丘になっています。ですから観光ではケーブルカーを使って上がるのが一般的。

見渡す限り荒涼としたユダの荒野。ごつごつした岩肌をケーブルカーで登っていきます。

実は歩きたい人は歩くこともできます。写真にあるように、階段がきちんと整備されています。でも死海付近は年間を通して暑く、しかも私が訪れた7月はまさに灼熱! 歩くどころでの話ではありませんでした。時間があれば歩くのも魅力的なのですが…かなりの時間がかかります。

さてこのマサダですが、ユダヤ人の最後の砦(とりで)としての役目を果たしました。この最後の戦いの様子は、歴史家のヨセフスが「ユダヤ戦記」の中で詳しく記述しています。

当時パレスチナはローマの支配下にありましたが、ユダヤ人の革命家たちがローマに反逆しました。そしてローマの駐屯部隊を虐殺したため、ローマ帝国の逆鱗に触れることになります。西暦66年にローマ軍はエルサレムに進軍してきます。ところがあと少しでエルサレム攻略というときになぜかローマ軍は撤退。ユダヤ人は難を逃れます。

もちろんローマ軍はあきらめたわけではありませんでした。4年後の西暦70年に軍隊を率いて戻ってきます。そしてエルサレムはユダヤ人の壮絶な抵抗の末に陥落。完全に破壊されます。この西暦70年の破壊は徹底的なものだったので、今エルサレムで見ることができる城壁や遺跡にこの時代のものは残っていません。

さて、一部のユダヤ人はこのマサダに立てこもります。そしてローマ軍への抵抗を続けます。その数、約1000人ほど。男性だけではなく女性も子供もいました。

昔も現在もこの場所は荒涼とした不毛の地です。でもユダヤ人は大量の武器と十分な量の食糧や水をここに蓄えていました。マサダは難攻不落のように思えましたが、ローマ軍は頂上に至る土手を作って対抗。7か月間立てこもったユダヤ人たちは、ローマ軍についに征服されそうになります。

でも頂上にたどりついたローマ軍は何の抵抗も受けませんでした。なんとユダヤ人は集団自決をしていたのです。その数960人と言われています。

隠れていた2人の女性と5人の子供だけが生き延びました。その2人の女性が後で、ローマ人に詳細を語ったそうです。

空気が澄んでいるときはマサダから死海を見渡せます。この死海を見渡しながら、ユダヤ人たちは何を思っていたのでしょうか。

今ではごつごつした岩が転がる岩山のマサダ。世界遺産にも登録されている有名な観光地ではありますが、歴史を知らないと「なんのこっちゃ?」で終わってしまう可能性が…。聖書の記述を少し知っていると興味深いかと思います。

とはいえ、このマサダには他にも興味深い見所があります。

ユダヤ人が集団自決する100年ほど前でしょうか、当時ユダヤ地域を治めていたヘロデがマサダに宮殿を造っていました。

それは王室健康リゾートのようなもので、荒涼とした砂漠にありながら、たくさんの水槽が置かれ,4,000万㍑以上貯水できました。

雨水を効率的に貯める設備もあったので,作物を育てたりプールや入浴を楽しんだりするための水が十分にありました。ヘロデは優れた建築家であったと言われています。

写真はそのヘロデによる建築の模型です。

その宮殿の遺跡の一部を今でも見ることができます。↓

さ、そんなマサダ、もしイスラエル観光に少し余分の時間が取れるよ~という方はぜひこの遺跡にも足を延ばしてみてくださいね。マサダは私が大好きな遺跡の1つなのであります。

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